鶴居に残るもの

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鶴の恩返しの、その後

皿池と鶴女房伝説

鶴居駅の​西に、​皿池​(さらいけ)と​呼ばれる​小さな​池が​あります。

昔​話​「鶴の​恩返し」​——機(は​た)を​織る​姿を​見られた​鶴が、​空へ​去ってしまう​お話。​播磨には、​その​後​日談が​伝わっています。

鶴が​去った​あと、​男の​手元に​残されていたのは、​水を​張った​皿に、​針が​一本。​意味が​分からず、​姫路・​書写山の​座頭​(ざとう)に​見て​もらうと、​こう​教えられました。​「針は​播磨を、​水と​皿は​皿池を​指している」。

男が​播磨の​皿池を​訪ねると、​そこに、​あの​鶴が​いました。​鶴は​「お幸せに」と​告げて、​姿を​消したと​いいます。

その​皿池が、​鶴居の​この​池だと​言い​伝えられています。​「鶴居」と​いう​村の​名も、​この​物語と​結び​つけて​語られてきました。

駅前の​鶴居地​域活性化センターの​壁には、​地元の​学生た​ちが​描いた​鶴女房の​壁画が​あります。​千年語られた​物語は、​いまも​村の​風景の​中に​います。

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鶴居が生んだ、世界の脚本家

橋本忍

「羅生門」​「七人の​侍」​「生きる」​「砂の​器」​——日本映画の​黄金期を​支えた​脚本家、​橋本忍​(は​しもと​ しの​ぶ)は、​1918​(大正7)年、​鶴居の​農家の​長男と​して​生まれました。

小学校を​出て​国鉄に​勤め、​播但線の​竹田駅などで​働く​青年でした。​転機は、​召集の​直前に​結核を​患い、​兵役を​免れて​過ごした​療養所。​偶然​手に​した​シナリオ雑誌を​きっかけに​脚本を​書き始め、​映画監督・伊丹万作の​ただ​一人の​弟子と​して​学んだと​伝えられています。

1950​(昭和25)年、​黒澤明監督​「羅生門」の​脚本で​世に​出ます。​映画は​翌年、​ヴェネツィア国際映画祭で​金獅子賞に​輝き、​日本映画の​名を​世界に​知らしめました。​以後も​「生きる」​「七人の​侍」で​黒澤作品を​支え、​自らも​「砂の​器」​「八甲田山」​「日本の​いちばん長い​日」など、​生涯に​およそ​70本の​脚本を​手がけました。

2018​(平成30)年、​100歳で​その​生涯を​閉じました。​ふるさとの​市川町には​2000年に​橋本忍記念館​(市川町文化センター内)が​開かれ、​直筆原稿などの​資料が​無料で​公開されています。

播但線の​小さな​駅で​働いていた​青年が、​世界の​映画史に​その名を​刻みました。​物語の​種は、​この​村にも​眠っています。

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円心も汲んだと伝わる、湧き水

鶴井の名水

鶴居駅の​西、​200メートルほどの​ところに、​古くからの​湧き水が​あります。​「永良​(ながら)の​鶴井の​名水」。

古い​文献には​「永良の​鶴井の​名水、​円心く​まれし」と​記されていると​伝えられます。​円心——鶴居城を​築いた​永良三郎則綱の​祖父、​赤松円心​その​人です。

「鶴井​(つるい)」と​いう​名は、​村の​名の​由来の​ひとつとも​言われています。​一条天皇の​時代​(986〜1010年頃)、​三本足の​鶴が​この​地に​舞い​降りた​ため​「鶴井」と​呼ぶようになった​——​そんな​言い​伝えも​残されています。

鶴の​名を​持つ水が、​千年、​村の​暮らしを​潤してきました。​村の​名の​源を​訪ねるなら、​まず​この​小さな​泉へ。

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明治二十七年の、木造駅舎

鶴居駅

1894​(明治27)​年7月26日。​播但鉄道の​開通とともに、​鶴居駅は​開業しました。

駅舎は、​開設当時から​建つ木造・寄棟造​(よせむねづくり)。​播但線の​香呂駅と​並んで、​兵庫県内でも​最古級の​駅舎と​言われています。

生野の​銀を​運んだ​「銀の​馬車道」が​馬車の​道なら、​播但線は​鉄の道。​馬車から​鉄道へと​時代が​移り変わる、​その​節目に​生まれた​駅です。

1991​(平成3)年に​無人駅と​なりましたが、​駅舎は​取り壊される​ことなく、​130年を​経た​今も、​朝夕の​通学・通勤の​人たちを​迎え続けています。

秋には、​駅前で​観月会​(かん​げつかい)が​開かれる​ことも。​おでんや​焼き厚揚げの​匂いと、​月あかり。​古い​駅舎は、​今も​村の​集まる​場所です。

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標高433メートルの、山城

鶴居城跡

集落の​背後に​そびえる、​標高433メートルの​城山​(稲荷山)。​その​頂に、​鶴居城の​跡が​あります。

築いたのは、​播磨守護・赤松則村​(円心)の​孫、​永良三郎則綱​(ながら さぶろう​ のりつな)と​伝えられています。​南北朝時代の​後期、​この​一帯・永良庄​(ながらの​しょう)を​治める​ための​拠点でした。

嘉吉元年​(1441年)、​将軍暗殺に​端を​発する​嘉吉の​乱で、​赤松氏とともに​城は​落ちました。​その後、​山名氏の​支配を​経て、​長享二年​(1488年)に​赤松政則が​播磨を​取り戻すと、​広瀬氏が​城主を​務めたと​伝わります。

山頂には​今も、​主郭​(しゅかく)の​平地、​石垣の​跡、​尾根を​断ち切る​堀切​(ほりきり)が​残っています。

頂からの​眺めは、​播磨平野ごしに、​遠く​明石海峡まで。​城が​ここに​築かれた​理由を、​その​眺望が​教えてくれます。​登り口は​鶴居駅から​歩いて​30分弱。​山頂までは​約1時間、​急な​斜面には​ロープや​鎖が​備えられています。

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布団屋台が宮入りする、村の宮

稲荷神社(稲荷山のふもと)

鶴居城の​そびえる​城山は、​別名を​稲荷山​(いなりやま)と​いいます。​その山の​ふもとに​祀られているのが、​稲荷神社です。

「稲荷」は、​五穀豊穣​(ごこく​ほうじょう)を​つかさどる​神さま。​田畑を​耕して​生きてきた​この​村の​人々が、​代々、​実りを​祈ってきた宮です。

秋に​なると、​この​宮に​布団屋台​(ふとんやたい)が​宮入りします。​金糸で​飾った​屋台を​担ぎ、​練り合わせる​——播州​(ばんしゅう)の​秋​祭り。​太鼓の​音とともに、​鶴居屋台が​宮へと​向かいます。

山の​上には​城跡、​ふもとには​村の宮。​稲荷山は、​鶴居の​歴史と​暮らしを、​上と​下から​見守ってきました。

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五輪塔が伝える、中世の記憶

広徳寺

鶴居の​集落に​建つ、​臨済宗妙心寺派の​寺、​広徳寺​(こうとくじ)。​永禄三年​(1560年)の​創建と​伝えられています。

境内には、​高さ75センチほどの​五輪塔​(ごりんとう)が​祀られています。​造られたのは​南北朝時代——今から​およそ​650年前と​考えられています。

誰の​塔なのかは、​分かっていません。​けれど、​山の​上の​鶴居城と​時代が​重なる​ことから、​城主の​墓塔ではないかと​言われています。​言い​伝えを​ご存じの​方は、​ぜひ文箱で​お知らせください。

山の​上の​城は​石垣だけに​なりました。​麓の​寺には、​小さな​石の​塔が​残りました。​中世の​鶴居を​生きた​人の​記憶を、​寺は​静かに​守り続けています。

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